2017年の映画『火花』を見ました。
言わずと知れたピース又吉直樹の芥川賞小説『火花』の映画化です。
『火花』は原作小説の他にネットフリックスの全10話ドラマ版(NHKでも放送)と映画版があります。ぼくは小説→ネットフリックス→映画の順で見ました。
映画版の監督は板尾創路です。板尾さんって映画監督もやってたんですね。
ぼくは、映画版の『火花』は板尾創路の趣向が強めな作品、もしくは力量不足な映画なんじゃないか?と感じました。
よくいる普通の芸人の普通の話
小説版の裏表紙にはこんなあらすじが書いてあります。
売れない芸人の徳永は、天才肌の先輩芸人・神谷と出会い、師と仰ぐ。神谷の伝記を書くことを乞われ、ともに過ごす時間が増えるが、やがて二人は別の道を歩みことになる。笑いとは何か、人間とは何かを書ききったデビュー作。
『火花』又吉直樹(文春文庫)
神谷は天才肌の芸人として物語に登場します。小説でもドラマ版でも主人公・徳永の神のような存在として描かれていると感じていました。
神谷は天才肌の芸人で、周りにも認められていて、でも天才すぎるからこそ芸人の中でも浮いている芸人。そんな、才能を持った芸人と笑いが大好きで情熱がある平凡な芸人の青春物語って感じで読んでいたんですね。
けれども、映画版はそう感じませんでした。
まず、二人の出会いが結構淡白で。小説ではどこか運命的な出会いというか、徳永が神谷のコンビ・あほんだらの漫才を見て高揚してブレイクスルー感ある出会いだったのに対し、映画版では割と普通に出会った印象でした。演出の問題かな?
特別感がなかったので神谷の天才芸人のイメージが損なわれている感じがしました。
その後も、神谷の天才芸人っぷりはあまり描かれないんですよね。あほんだらの凄さがあまり語られない。それで、徳永が神谷を天才だと、特別に神谷だけを慕う感じも伝わってこなくて。
まあ、先輩後輩の芸人同士ならわりとそんな感じなんじゃん?って思う普通の先輩後輩の関係性を描いているように思えました。
もしかしたら監督の板尾創路は『火花』を普通の芸人たちのよくある普通の物語として捉えていたのかもしれない、「芸人の世界ってこんなんやねん、特別なもんでもないねん」って伝えたかったのかもしれないなと思いました。あえて、そう見せるようにしているのかなって。
まあ、深読みな気がしますけど、板尾の目には『火花』がそう写っていたのかもしれません。
芸人をそんなに美化したくないって思いがあるような気がした
神谷が銀髪にして徳永の感情が爆発するシーン
徳永が髪を奇抜に染めて(小説とドラマでは銀だったような、映画は金髪でした)、それを神谷が真似したことに対し、徳永が感情を爆発させるシーンがあります。この物語の見せ場の一つです。
ここは小説を読んでいてちょっとドキッとしたところでした。「人の模倣は死んでもしたくない」と言っていた天才芸人があっさり後輩の真似をするエピソード。それも、真似するのは髪の色。
これってダウンタウンの松本人志がビートたけしの金髪を真似したのをモチーフにしてるのかなって、お笑いファンの多くが思ったんじゃないでしょうか。この問題に又吉が切り込んだ!って。
そういうことが頭にちらついたので初見の小説ではここの部分は複雑な感情で読んでいたんですけど、映画ではこれまた印象が変わりました。
冷静に見てみると、テレビでたまたま徳永のコンビのスパークスの漫才が流れ、あまり笑っていない神谷に、ただ一方的に徳永が噛み付いているだけに見えました。神谷は一言も「面白くない」と言っていないのにキレだす徳永がまったくの理不尽な怒りのように映ります。
それはつまり、徳永がギリギリのところで切羽詰まって精神が疲弊していることを表していて、これまで
後輩の髪型を真似するほど迷走している神谷
って印象だったのが真逆の印象になって、
先輩に理不尽にキレるくらい追い込まれている徳永
のシーンだったんだなと感じて、こっちが真実だったのかも、って思いました。
その後も「捨てられることを誇らないでください!!」って菅田将暉がめっちゃエモーショナルに演じるんですけど、「お、おう」って感じで神谷が誇っているようにも見えないので、徳永が訳わからんこと言っている、だいぶ切羽詰まってんな、って見えたんですよね。
人に何かを求めちゃうのって、やっぱりどこか自分に問題があると思うので。
金髪模倣問題、映画の印象の方が正しいのかも。原作読み返してみようかな
2時間じゃ全然足りない、神谷を描けてない
はい、ベタな感想ですけど、小説を映画にすると2時間の尺じゃぜんぜん足りないですね。細部を描き切れていないです。この映画を見て一番感じたことは「2時間じゃ短すぎる」です。
この物語は主人公・徳永に対し神谷の存在が大きいですが、その神谷をぜんぜん描けてないなって思いました。
先に書いた金髪模倣問題では、そもそも映画の中では神谷が「人の模倣は死んでもしたくない」と語るシーンはなかったので、映画を見ただけの人は徳永がキレるのもぜんぜん伝わってこないと思います。
というか、そういう神谷語録みたいな天才芸人感ある考え方を徳永に説くシーンがあまりなかったんですよ。
神谷が芸人の世界で、そして徳永にとってどういう存在なのか、映画だけでは人物像がイマイチ伝わってきませんでした。徳永とのつながりすらもそれほど濃くないように思われて、そのせいで徳永が神谷にキレる大事なシーンも見え方が変わってしまったのかもしれないです。
映画という「2時間枠の映像作品」に上手に収められなかった感じ
板尾の解釈か力量不足か
というわけで、板尾創路監督の映画版『火花』の感想でした。
小説を読んだのもドラマ版を見たのも結構前のことなので、あまり内容を覚えていたわけじゃないけど、小説と印象が違っていてその点が面白かったです。
板尾の解釈が力量不足か、どっちなんだろうって思いました。
板尾が『火花』を「普通の芸人たちのよくある青春話」と捉えてメガホンを取ったのか、それとも映画として細部を描けなかったからぼくがそんな印象を持ってしまったのか、これはどちらかわかりません。
ただ言えることは、『火花』に興味がある方はまず最初に原作小説を読んだ方が良い!ってことです。小説、ドラマ、映画、結局は小説が一番良いなと思います。
タイトルの火花の意味って結局なんなんだろう。花火から始まって花火で終わる物語。タイトル花火でいいんじゃ、、
やっぱり火花のように儚く散る芸人の青春ってことなんだろうか
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