森博嗣さんの『自由をつくる 自在に生きる』という本を読みました。
この本、ぼくは「タイトルがもったいない!」と思っています。最近の本にしてはそっけないタイトルなので、あまり手に取られないような気がしていて。
タイトルで興味がわかない人もぜひ読んでみてほしい本なんですよね。
「定期的に自己啓発本は読んでしまう」というような、本に漠然と生き方指南を求めてしまいがちな人にはオススメの本です。まあぼくのことですが。。
「自由とは何か?」ということを徹底的に掘り下げることによって、自分の状況が見えてきました。
自由のじゃまをするものは何か
ぼくがこの本を読めてよかったなあと思うことが、肉体的欲求も自由のじゃまをする支配であると学んだことです。
自由とは何か?
この本のテーマになっている自由という言葉。
「自由ってなに?」って聞かれて、あなたはなんて答えますか?
この本はまず森博嗣さんの考える「自由とはなにか?」という話から始まります。
僕は、「自由とはなんですか?」と問われたとき、剣豪の刀の例で挙げた意味を答えている。あっさり簡潔にいうと、「自在」あるいは「思うがまま」であり、ようするに「自分の思いどおりになること」である。
ぼくは自由とは、「何にも縛られていない状態」という風に考えたんですけど、森博嗣さんの考える自由はちょっと違いました。彼は「自分の思い通りにできること」だと言っています。
同じような気がしますがちょっと違う。「何も縛られない」はマイナス視点から見た自由、「思った通りにできること」はプラス視点から見たという感じがします。
ぼくは生きていく上で、この視点が大事な気がしました。
日々ストレスを感じていることが多いぼくが感じている自由は、そんな日々からの解放という意味で「縛られない、〇〇ない」という打ち消しの発想なんですよね。
自分の姿勢ってマイナス思考だよなーとしみじみ。
あなたは自由ですか?
まあ、ちょっとふざけた質問に聞こえるかもしれませんが「あなたは自由ですか?」と聞かれたらなんて答えますか?
ぼくは、そう聞かれたとしたら、「半分くらい自由です」と答えます。求めていること、好きなことはやれているから自由だと感じて生きています。
その裏では、その自由を持続させるため、自由とは遠いところにある労働にたいせつな時間を奪われています。なので半々かなと。
この場合、ぼくの自由を支配しているのは労働です。ぼくだけじゃなく、「自分の自由を奪っているのは労働だ」という人は多いんじゃないでしょうか?
自由を奪うものは自分の外側にあるものばかりです。自分と合わない人、社会、文化、そういうものが自由を奪います。アレさえなけば、これさえなければと悩む毎日。
自由は自分の欲望に”も”奪われている
自由を奪うものは自分の外側にあるもの。ぼくはそう思っていたんですが、もう一つあるんです。
自分の内側にも自由を奪うものがありました。森博嗣さんはこう言っています。
腹が空いたら好きなものを食べる。これは「自由」な状態だろうか?
普通は、これこそ「自由の中の自由」「自由の代表格」だ、と認識されている節がある。
(中略)
食欲のほかにも基本的な欲求がある。寝たいときに眠り、働かなくても良いなら、一日ごろごろとなにもしないでいたい。そういう状態が「自由」だと思い描く人は割と多いのではないか。
はい。まさに。ぼくはそう思ってましたが。食べるの好きですし。まーごろごろしていたいですよね。猫になりたい。
少し考えてみればわかることだが、腹が空いたというのは、肉体的な欲求であり、つまり、食欲は躰による「支配」なのである。休みたい、寝たい、というのも同様だ。躰が頭脳に要求している。頭ではもっとしたいことがあるのに、躰がいうことをきかない、そういう不自由な状況と考えることができる。
(中略)
もっとやりたいこと、やるべきことがあるのに、人間は生きていくために食べなければならないし、寝なければならない。作業の効率は落ちるが、死んでは元も子もないから、しかたがない。躰は、この要求をあたかも「したいこと」のように頭脳に訴え、これが「肉体的欲求」となる。思考によって導かれた「自分がやりたいこと」とは発信源が異なる。
肉体的欲求と自分がやりたいことは違うと。
「食べたい」美味しいと感じたいから。「寝たい」寝るのは心地良いから。でもこの時の気持ちは、生命維持のための肉体的欲求です。
これらの欲求は自分の頭で「〇〇したい」と考え出したことではなく、躰が求めるものに対する自分の反応、反応してしまっていること、つまり支配と言えると森さんは言っています。
やりたいことではなく、やらされていることなんです。
「朝布団から出られない、布団が気持ち良いから、それができる休日は自由だ!」ってぼくは思っていましたが、森さんからするとそうではないと。肉体的欲求に支配されてしまっているということなんです。
確かに、他にやりたいことがあるのに布団から出ないで二度寝するということは、本当は自分はそんなことで時間を使いたくないと思っている行為です。
でもやってしまっている。肉体的欲求に支配されて自分から不自由になっている。
こういう風に考えると、自分が本当に動物的で浅はかな感じがして恥ずかしいです。が、そう思えたのでこれからは変えられるなと今は思っています。
自分の自由をじゃましてるものは自分の外側にあるものと、自分の肉体的欲求なのです。
肉体的欲求に支配されやすい問題
人と人生の目的とか幸せとかの話をする時がたまにあります。そんなとき、結局「モテたい」とか「人より稼ぎたい」とかいう意見が強いなとぼくは思っていて。
「そういう人が多いな、でもぼくは違うな」という風に思っているものの、結局のところ三大欲求に関わることは納得せざるを得ないなと。
例えばその時に「いい音楽を演奏したい、演奏できるようになりたい」などと言うと、「それも結局モテたいからでしょ」って大きく括られてしまって、「まあそう言われると100%違うわけでもないしなー」とか漠然と思っていました。ぼくのやりたいことも、結局はそこから派生しているものなのかなーという。
なんか違う気がするけどうまく言えないモヤモヤを抱えていたんですよね。
でも、『自由をつくる 自在に生きる』を読んでからは、明確に違うんだなということが理解できました。
頭で考え出したやりたいことの方が気持ちとしては強いんですよ。モテたいなどの肉体的欲求につながる「やりたいこと」は、体から思わされていることなんですよね。
ただ、肉体的欲求は強いです。コレが問題です。
例えばぼくは仕事中いつも「今日うちに帰ったらアレをやろうコレをやろう」と自分のやりたいこと、やりたいことを実現するために必要なことを考えています。
でも、いざ家に帰るとそれができない。とりあえず風呂に入ってスッキリして、ごはんを食べればくつろいでしまう。眠くなってしまいます。で、「明日やろう」になってしまう。
そんなことってないですか?
これって自分のやりたいこと、つまり自由が肉体的欲求に支配されているんですよね。
もちろん、森さんも言っているように、肉体的欲求を否定するつもりはないです。支配までいかなくとも、ある程度は体からの欲求は答えないと体を壊してしまいます。
ただ、行き過ぎると自分の頭で考え出した自由を支配してしまう存在になってしまうんです。難しいものですね。
労働と肉体的欲求に打ち勝つ!
この本を読んだことによって、ぼくの人生でやりたいことのじゃまをするものが明確になりました。
それは労働と、自分の肉体的欲求です。
前者はまあいつも悩まされていることなのでわかっていたことです。けれども後者はそれほど意識していませんでした。むしろ、自分のやりたいことの根源に存在するものなのかもという認識でいました。
でもそうじゃなかった。肉体的欲求は自由のじゃまをするものです。これに打ち勝つことがなにより大切だなと実感できる本でした。
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