(こちらは2017年に書いた記事です)
高野秀行の『ワセダ三畳青春記』という本を読んだ。
この本は30代に入って大人になっているのにもかかわらずちゃらんぽらんに生きている僕にとってはかなり心に響き、強く共感する本だった。
ワセダ三畳青春記
三畳一間、家賃月1万2千円。ワセダのぼろアパート野々村荘に入居した私はケッタイ極まる住人たちと、アイドル性豊かな大家のおばちゃんに翻弄される。一方、私も探検部の仲間と幻覚植物の人体実験をしたり、三味線屋台でひと儲けを企んだり。金と欲のバブル時代も、不況と失望の九〇年代にも気づかず、能天気な日々を過ごしたバカ者たちのおかしくて、ちょっと切ない青春物語。
出てくる人間たちがぶっ飛んでいて面白くて、そこがまた切なくもあって、というようなまさに青春と呼べる物語だ。僕は強い共感を持って読めた。
クレイジージャーニー高野秀行
僕はテレビか何かでこの本が面白いと知り、いつか読もうと思っていた本だった。それがある日kindle日替わりセールで安くなっていたのでポチって読んでみたのだ。
率直にすごく面白い本だった。もっと続きが読みたかった。あとがきで「書ききれないことがまだある。それは次の機会に譲りたい」とあったので続編がないか検索。
すると以前話題になっていた本『謎の独立国家ソマリランド』が出てきた。僕は読んだことがないがいろんなところで目にした本である。ここで、ああ有名な作家だったのかと知る。
他には、『ワセダ三畳青春記』中でも書かれていたが、旅行記が多い。どんどん調べていると納豆の本が出てきた。納豆?
旅人、納豆、まさか。
グーグルの検索窓で「高野秀行 ク」と入力すると「高野秀行 クレイジージャーニー」と予測変換が出てきた。
『ワセダ三畳青春記』の著者はあのクレイジージャーニー高野秀行だったのだ!
クレイジージャーニーとはTBSでやっているクレイジーな旅人にフォーカスする番組である。僕は大好きな番組だ。
もちろん僕は高野秀行出演回も見ている。最近では納豆は日本だけでなくアジアで広く食べられているという取材が取り上げられていた。
まさか『ワセダ三畳青春記』がクレイジージャーニーの若かりし頃の記録だったとは。読み終えてから知った。
30代フリーターの心に刺さる
この本は、30代になりながら未だフリーターの身である僕にとっては、グサグサと心に刺さる強い共感のある物語だった。
「行き詰まっているんだけど、何に行き詰まっているのかわからない」
至言である。私も二十歳前からやりたい放題やってきて、今でもやっている。現状にさしたる不平不満はない。だけど、何か周囲を暗雲におおわれているような気がする。それは新聞のアンケート調査なら「将来への不安」でくくられてしまうのだろうが、当事者としてはもっと微妙であいまいなものだ。だいたい、将来を待たずして、現在が不安なのだ。
(中略)
学生時代までは明白に「学校」「学生」という道があった。他の人はその後も「会社」もしくは「定職」という道を歩いている。不自由であるが、迷う必要はない。
ほんとそう。いや、ほんとそう。現状にさしたる不満はないのだけどなんかぞわぞわと、目の端に暗雲のようなものが見える気がする。微妙な気持ち。
しかし、ここで一つの結論が出る。
「みんな、なんかきれい事言ってるんじゃないの?それより、俺たちはもっと切迫した問題があるよ」
「なんだよ」
「このメンツで彼女がいる奴は誰もいないじゃないか。ひとり者が年を食っていくと行き詰まるんだ」
私たちは不意打ちを食らったように沈黙した。
!!!
ここまでずっと同意して読んできたところで、僕も”みんな”と同じように不意打ちを食らった気がした。
確かに、行き詰まりを感じてから彼女ができたことがないから、これに対して何も言えない。
僕たちの感じている行き詰まりの原因は、こんな簡単なことだったのだろうか。
こんな話をしていた仲間たちも、野々村荘を離れ、いつの間にか就職していく。自分だけ取り残されたような気持ちなる孤独感がある。
「向こうの人になってしまったんだな」という気がするからである。「惜しい人をなくしたな」に近い感情でもある。
しかしながら彼らも時折思い出したように主人公の部屋に訪れる。思い出話に花を咲かせて、今でも変わらずにいる主人公を羨ましがる。そして朝になると去っていく。
みんなして砂場で遊んでいたのに、気づいたら日が暮れて、ひとり、公園に取り残されたのに気づいて漠然とする子供である。彼らが野々村荘や私を見て羨ましがるのは、公園の砂場やそこにいつまでも無心で遊んでいる子供を羨ましがるのと心情的には変わらない。
はああああああ。全く一緒だ。共感せざるを得ない。僕だけはまだ公園の砂場にいるのだ。
青春の終わりは
『ワセダ三畳青春記』は僕にとって、強い共感を生む物語だ。しかし、読み終えた今、僕が腹が立っている。それはこの青春記のラストに原因がある。
行き詰まり、30歳を超えると行き詰まりすら感じなくなっていく主人公。ここまでは僕も全く一緒だ。
しかし、最後の章で主人公に彼女ができる。彼女ができた主人公は野々村荘を後にする。そして終幕。「えええええええ何それ???」である。
モテない男を題材にした『シガテラ』も、またこのパターンかと読むのをやめた『わにとかげぎす』もそうだが、冴えない主人公になぜだか理由もなく突如幸運が転がり込んで終わるという物語が世の中には多すぎやしないだろうか。
<2022.1/8 追記>また怒りが込み上げてきたので赤太字にしました。プンプン
『ワセダ三畳青春記』は実体験であるし、モテない男に幸運が転がり込むみたいな類の話でもないのだが、この終わり方によって、上の2作品を思い返してしまったので腹が立っている。何より野々村荘を出た理由がなあ。わかるけど。
終わりと無職の追記
終わりは納得のいくものではなかったけれど、実体験だからしょうがない。どうやら高野氏は「その人」とめでたく結婚したようだ。素晴らしい。
『ワセダ三畳青春記』はすごく面白い本だったし、また読み返すことになるだろう。そしてクレイジージャーニー高野秀行は僕の好きな作家の一人になった。
<追記>
40歳を目前にして今度は無職として
この本を思い出すことになるとは
思いませんでした…
無職にも非常に刺さりますね
独身のおっさんの孤独感ったらないです
ぼくはまだ子供部屋おじさんだから
まだマシかもしれないけど
日常的に遊ぶ
(遊ぶっていうか飯を食う?
男の遊びってなんでしょうか?
ラーメン食うくらいしか
思いつかないです)
友人はもういません
みんないってしまう、確かに、
惜しい人をなくしたな感はある
かもしれません
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