評論家の宇野常寛さんとYouTuberのカジサック(キングコング梶原)さんがネットで話題になっています。
とあるイベントで共演した2人は、ゲーム対決をし、そこでカジサックさんが宇野さんをしつこくいじり、それに腹を立てた宇野さんがイベント中に帰ってしまうという事態になったようです。
この件についてぼくはイベントに行っていないので詳しくはわかりませんが、要するにカジサックさんのいじり笑いがすべったということかなと思っています。
いじめといじりの境界線は難しいよなあと改めて感じる出来事でした。
いじめといじりの境界線
いじめといじりはの境界線は難しいと思います。これは人によって違うものです。いじる方の捉え方、いじられる方の捉え方、見ている外野の捉え方。この全てで変わってくるものです。
笑いって、こういう曖昧なラインをついてくるから面白いんですよね。それをつけるから面白い人はやっぱり人間的にもすげーって思ってしまうし、笑いを作る仕事は評価されているのだと思います。
その曖昧なラインの見極めをして、笑いに変える技術があるのがプロです。たぶん、膨大な経験に基づいて瞬時に答えを弾き出してやっているのだろうと思います。
その場の新しい目線を、誰よりも早く出してきて、それに共感させて笑いをとる。目の付け所と瞬発力と表現力がキモな気がします。
そして、いじり笑いに何より必要なのは信頼関係です。
いじり笑いは基本、いじる方、いじられる方での「そういう笑いもやるよ」という信頼関係があった上でのやり取りだと思います。これがなければ笑いにするのは難しいはず。
というわけで、カジサックさんがやったような、イベントなどの公の場で初対面の人をいじるというのはかなりの技量が必要になる笑いだと思います。
いじり笑いのちょっとした違和感
ぼくはお笑いは大好きです。いじり笑いも好きです。でも、たまに「ちょっと笑えないかも」と感じることもあります。
やっぱり弱いものいじめに見えてしまう笑いもあります。笑っている人は多いけど、笑えない自分がいるときもあります。なので、一概に信頼関係さえあれば良いというものでもないんですよね。
もちろん笑えることの方が多いけど、いじられている人が自分に近ければ近いほど笑えないことがあるんですよね。
近いっていうのは、例えばぼくが好きなアーティストがテレビで芸人にいじられている、とかそういう近さです。
自分がよく知らないアーティストなら「みんな」といっしょに笑っていられるけれど、自分が好きなアーティストだとちょっとだけ笑えなかったりします。8割笑えて2割疑問符くらいな感じで。
これがもっともっと自分に近くなってくると疑問符の割合が増えて、笑いどころかイヤな感じも足されていきます。好きな有名人、知人、身内、自分の順でイヤな感じが増えていきそうです。
そう考えると、今はハゲ、デブとかのいじりはやっぱり笑ってしまうんですけど、ぼくも歳をとってだんだん生え際も後退してきているし、腹も出つつあるし、自分がハゲでデブになったら笑えるのだろうかと思ったりもします。
信頼関係があった上での笑い
よく、コンプレックスを笑いに変えるという方法がありますが、自虐は良くても人から言われるのはイヤということがあります。
「あいつに言われるのはいいけど、お前はイヤ」というのもありますね。やっぱり必要なのは関係性、つまり信頼関係です。
認め合っている、認めた人にならいじられても良いんですよね。
今回の宇野常寛さんとカジサックさんの一件に関して、カジサックさんの相方の西野亮廣さんがブログを書いています。>>拝啓、カジサック様
これが秀逸で、西野さんがカジサックさんをこれでもかといじっているんですよね。これが面白いです。「そうなんだよなーー」って思って笑っちゃいます。これぞいじり笑い。
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https://ameblo.jp/nishino-akihiro/entry-12438148907.html
『めちゃイケ』のオファーシリーズの岡村さんのパクリとしか思えないその衣装
ブログを通して「いじり笑いはこうやってやるんだよ」とカジサックさんに教えているようです。
西野さんはキングコングで苦楽を共にした相方という信頼関係があるからこそ、カジサックさんをここまでこき下ろせるわけですね。
カジサックさんも西野さんの手紙を読めば、いじり笑いについて気がつくことがあるんじゃないでしょうか。
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