<昔のブログに書いていた記事です>
昨日、小麦の奴隷になってしまった人類の話を知った。
これには諸説あるようで本当にそうなのかはわからないけど、これまでにない視点だったので面白かった。
この小麦の話を読んでいた時、奴隷について考えていた。奴隷というと辛いし可哀想な立場というふうに思ってしまうけど、あながち奴隷も悪くないという考え方もできるのではないか。
事実として僕が働く会社では奴隷の方が楽という人が存在する。
使う立場と使われる立場で思うこと
僕は会社に雇われているだけだから基本的には奴隷の立場だけど、今の仕事では自分が現場を仕切って仕事をするときもあれば、監督の指示に従って駒として働くときもある。
僕の立場を細かく現場単位で見ると、使う側の時と使われる側の時が同じくらいある。
使う側の時と使われる側を比較して見てどちらがいいかというと、僕個人は圧倒的に自分で現場を仕切って仕事をした方がいいと思っている。使う側の方が良い。疲れないし、ちょっと楽しい。
人を使う立場で思うこと
仕事としては使う側の方が仕事量は多い。いつもの作業をしながらも、人を見て判断してその都度指示を送らなければならない。その現場の責任を取らなければならないなど、使われる時よりもプラスαの仕事がある。
けれども駒として使われて働いている時よりも、疲れることがない。それは肉体的にも精神的にもだ。
これは不思議なんだけど、多分「自分で決断して動いている」ということがポイントになっているのだと思う。
自分で決めて動くと、自分で予測を立てながら、責任を持ちながら集中して仕事ができるから疲れないのだ。仕事は好きじゃないのだけど、責任感からか、好きなことをやっている時のような「夢中な状態」に入りやすい。
ゲームにハマったり、本を読んで集中していたりして「いつの間にかこんなに時間が経ってしまった」というのと近い状態になるのだ。
人に使われる立場で思うこと
その一方で、楽な仕事であっても他人からの指示だと心身ともに疲れてしまうことがある。これはさっきと逆で、やらされている感がそうさせるのだと思う。
「本当はこうやった方がいいんだけどな」と思いながら、上の指示だからしょうがなく指示通りに動く。これは精神的にストレスがたまる。仕事の振り方が下手で作業量のバランスがおかしくなると肉体的にストレスがたまる。
この辺の部分で疲れ方が変わると思う。どちらかというと精神ストレスの方が大きいかもしれない。自分で決めたことだから納得してやっているということと不満がありながらやらされていることというのは、かなり大きな差がある。
要するに、全く同じ作業だったとしても、自ら決めてやるのと、言われてやらされるのとでは全く違うのだ。本当に、その日の疲れが全く違うと感じる。
奴隷の方が楽?
というわけで僕が現場監督になる時には、自分の下で動く人にも楽に働いて欲しいから、自由な選択をしてもらうことがある。自分で仕事内容とやり方を決めてもらった方が疲れないと思うからだ。
しかし、意外にもほとんどの人が僕に仕事を決めてくれと言ってくる。いつも通り指示されて指示通りに動くだけの立場を取ろうとする。「いや、好きなようにやっていいよ」と言っても、「決めてください」と言ってくるのだ。
これは自分で決めるということに負担を感じているのだろうと思う。確かに、自分で決めてやってみてその結果が出ないと自分の責任になるだろう。それが嫌だから上に決めて欲しいのだ。
だから「責任は取るから」と僕は言うけれど、それでも「指示してくれ」という。なぜだろうか?
僕の「人を使う立場としての信頼のなさ」も大いにあると思うけれども、僕が感じているのはほとんどの人が奴隷思考になってしまっているということだ。
ほとんどの人が指示通りの方が楽、いつも通りの方が楽、つまり奴隷の方が楽、と思って働いているのだ。自分で何も考えない方が楽だという人がいるのだ。やらされ続けた結果、そう思い込んでしまっているのだと思う。慣れているということが大きい。慣れている=安心感があるということだ。
いつも通りであれば特に頭を使うこともなく1日が終わる。慣れている仕事であれば余裕があるから仕事中に他のことを考えたりもできる。
奴隷思考の人は自分の頭を使わなければ疲れないと考えている。まあそれもわかるのだけど、こういうことを続けていては、人としては面白みのない人間になってしまうと思う。
でも、割り切って考えているのだろうから、それが悪いわけじゃない。
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